3月7日(火)11時~「アントニオ猪木 お別れの会」がおこなわれ、猪木さんとのお別れに大勢のファンが両国国技館に集い、場内には猪木さんの歴史を彩った写真などが展示された。
そして、式典会場にはリングが設置され、リングを見下ろすように猪木さんの遺影が掲げられ、常識の枠を超え、どこまでも自らの信じた道を進んできた故人の歩みをトレードマークの赤いマフラーをイメージした式壇中央に走る道が表現された。また、式壇には猪木さんがレスラー時代、身にまとった真っ赤なガウンも飾られた。
式典開始とともに、会場スクリーンに「道」の詩が浮かび上がると、発起人代表の坂口征二相談役より「只今より、故アントニオ猪木、猪木寛至、お別れの会を行います」と開会宣言ともに、「炎のファイター」が流れた。
司会はテレビ朝日・田畑祐一アナウンサーが務め、「追悼の10カウントゴング」がおこなわれると、会場スクリーンに猪木さんヒストリーが上映された。
続いて、お別れの言葉として、森喜朗さん(元内閣総理大臣)、藤波辰爾選手(ドラディション代表)、棚橋弘至選手、古舘伊知郎さん(フリーアナウンサー)がそれぞれ猪木さんへメッセージを送った。
※棚橋弘至選手、古舘伊知郎さんのお別れの言葉は【3.7アントニオ猪木 お別れの会②】に掲載
■森喜朗さん(元内閣総理大臣)お別れの言葉
「猪木さん、プロレスとのお付き合いよりも、政治の場面でのお話をすることが大変多かったと思います。より改めて、今、あなたの勇気、あなたの力強さ、真面目さ、そして明るさ、全てを兼ね備えておられると改めて感心しました。ちょうど石川県の知事選挙をやっておる最中でしたが、あなたは病床から電話をくれましたね。さっきちょうどビデオに出てた最後の場面、あの雰囲気でした。
そして、『馳くんは大丈夫かな?』。こう問いかけてくれた。驚きました。今、まさに生死の境にした闘いをしているあなたが、自分の弟子の馳くんの選挙のことを心配をしてくださっている。本当に涙が出ました。馳くんは必ずしも有利な状況ではありませんでしたが、知らせてやりました。そこから大きく力を得たようでした。
『もしこれで負けたら猪木に申し訳ないぞ』、『そうだ。頑張らなきゃ』って言って、彼は最後接戦でしたけど、見事に勝利を得ました。まさに最後まで最後まで弟子の馳くんの選挙を心配してくれてた。いかにも猪木さんらしい一コマでした。お話したいことはありますが、与えられた時間が4分でもう半分過ぎてしまいました。馳くんを紹介されたのは、あなたが可愛がってくれた私の13年前に死んだ息子の友だちであったからです。そして、馳を政界に引きずり込んだのはウチの息子でありました。
あなたは見事に全国区で最高点で当選をされました。その結果、面白いことが一つ起きたんです。2番目にノミネートされていた大阪の先生がおられるんですが、途中であなたは知事選挙に出ると言って、私は党の役員として、『今ここで知事選に出られると我が党としての立場は困る』ということを申し上げて、できるだけ抑えたいなと思っておりましたが、あなたが知事に出られると、2番目にノミネートされた大阪の先生が当選するということになる。
彼も私の友人でした。多分もう猪木さんは都知事の方に顔が向いてるだろう、心が傾いてるだろうということで、国会議員用の背広を揃えて、背広に穴まで開けて用意をしていましたが、見事に裏切られてしまいまして、そのままあなたは参議院に残られることになりまして、その大阪の友達は今日ここへ着ておりますが、『あの背広は無駄になったな』と言って笑っておりました。
いずれにしても長くその思い出は尽きないことはたくさんありますが、いつまでもいつまでも先程のビデオの言葉のように、多くの皆さんの心の中の灯火として頑張ってほしいと心から願います。私ももうそう長い時間じゃないと思いますから、また向こうに行きましたらあなたの応援に参りたいなと思います。
いつまでもいつまでも安らかにというのはこういう時の言葉ですが、あなたの場合は安らかではなくて、ますますあの世に行っても、在天にいても、闘魂たくましく、この日本の国を見守り、日本の国民のことを心配をしていただけたらありがたいと思います。本当に長い間ありがとうございました。いろいろと我が党も、また私も、また私の家族もお世話になりましたことを心からお礼を申し上げて、お別れと致します。ありがとうございました」
■藤波辰爾選手(ドラディション代表)お別れの言葉
「はじめて、あなたに会ったのは16歳です。私はいま、69歳になりました。気がつけば、53年の月日が流れました。田舎の少年が、ブラウン管に映し出されるあなたの勇姿に夢を見、憧れました。アントニオ猪木になりたくて、郷土の先輩、北沢さんを頼って入門して、その日から53年が経ちました。
いまも昨日のことのように思い出されます。あなたが日本プロレスから独立し、新日本プロレスを旗揚げした際、何一つ迷うことなく、あなたについていきました。私の決断は間違っていなかったと、心に確信しています。夜逃げ同然であなたのスーツケース、5~6個を持ち、できたばかりの新日本の事務所に駆け込んだ夜。猪木さん、あなたを筆頭にたった6名での旗揚げでしたね。あなたは山本小鉄さんや我々にもいたわり、まさに手作りの旗揚げでした。
アントニオ猪木になりたくて、本気でそう思いました。技も髪型も洋服も、すべてあなたの真似をしました。あなたに出会い、私の人生は大きく変わりました。
豊かになり、また共に練習をし、タッグを組み、ときには戦いました。そのすべての瞬間が、私の人生の財産です、一人のレスラーとして、あなたに尽くしたくて、超えたくて、大きな背中を追い続けてきました。
1988年8月8日、横浜文化体育館でのあなたとのタイトルマッチは、私にとってかけがえのない思い出です。あなたにベルトを巻いてもらったことは、この上ない喜びでした。さまざまな困難にも共に立ち向かいました。
新日本プロレスの社長時代には、オーナーであるあなたと、選手と、ときには違う向き合いをしなくてはならないときがありました。あなたに背を向けたこともありました。でも、あなたを恨むことも、嫌いになることもできませんでした。
あなたが去ってから、心の寂しさはまだまだ癒えることはありません。きっと自分の親よりも長くすごしたあなたの存在を、脈々と、この先もずっと忘れることはないでしょう。
私はまだ、あなたから教えてもらった闘魂を胸に戦い続けています。魂をもう一度振るわせて、あなたの教えを後輩たちにつないでいきます。最後になりますが、あなたは私の永遠の師匠であり、不滅のヒーローです。あなたにとって、初めて許された休息のとき、ゆっくりと安らかにお休みください。でも、ときどき、リングに会いにきてください。僕はいつでも帰りを待ってます。かぎりない感謝を込めて。2023年3月7日、藤波辰爾」