3月7日(火)両国国技館にて、新日本プロレス創設者であり、昨年10月1日に逝去された「アントニオ猪木 お別れの会」が開催。第1部では、式典が行われ、式典終了後には出席したレスラー、関係者らが囲み取材に応じた。
■オカダ・カズチカ選手のコメント
──猪木さんのお別れ会を終えてみて、改めてどんな感想をお持ちですか?
オカダ「両国国技館はたくさん試合をしている会場で、やっぱり『炎のファイター』が流れると悔しさがこみ上げてくるというか。改めて会場であの曲を聞くと、特にそういう思いが出てきたというか。でもまぁ、そんなにいつまでもクヨクヨしている場合でもないし、そういう悔しさをしっかり自分の糧にして、プロレス界を盛り上げていかなきゃダメだと思いましたし、猪木さんが新日本プロレスを作ってくれたからこそ今のプロレス界があると思いますんで、もっともっと大きなプロレス界になっていけるようにしっかりと盛り上げていきたいと思います」
──最後に「ダァーッ!」をやりましたけど。
オカダ「代わりに……代わりにって言っていいのか分からないですけどね、やらせていただきましたし、やっぱり今日のお別れの会でやらないわけにはいかなかったと思いますしね。追悼大会でもやらせてもらいましたし、そういう機会をいただけましたんで。『1、2、3、ダァーッ!』っていうのはある意味、終わらせられないというか、しっかりと猪木さんが築いてきたものですし、猪木さんのものですけど忘れさせられない、風化させられないというか。
だからこそ、まだまだ皆さんに。誰でもやりやすいじゃないですか? 一致団結する時とかにやることもできると思うんで、ドンドンドンドン皆さんに忘れられないように……忘れることはないと思いますけど、『余計なお世話だ、バカ野郎!』って言われるかもしれないですけど、しっかりとまたやらせていただいたんで、今日は。追悼大会と今日とやらせてもらったんで、猪木さんも『オカダも様になってきたんじゃないか』と言ってるんじゃないかと思います。なってないか(笑)」
■棚橋弘至選手のコメント
──「お別れの会」を終えてみての感想は?
棚橋 弔辞を読ませてもらう意味っていうのをよく考えてまして、前日からね。いろいろな選手、関係者がいる中で、なぜ僕なのかっていうところで。なんか、それだったらば選手代表というか、会場に来てくれている猪木ファン、猪木さんのファン、猪木さんに元気をもらったみんなの代表としての感謝の気持ちを述べれたらいいなっていうのがあって。猪木さんの凄いところはデビューしてからしか僕は知らないですけど、猪木寛至の、アントニオ猪木のどの部分を切っても、常に元気というか。全盛期は27歳前後と言われてますけども。日プロ時代、新日本プロレス時代、IGFもあって。で、晩年ご病気された時もやっぱり猪木さんから常に発してくれているエネルギーをもらって、がんばれた部分もあったと思うんで。ホンットに、偉大過ぎて追いかけるのがイヤになるぐらいの人ですね。
──これだけ盛大なお別れ会だったが?
棚橋 そうですね。日本全国、今日来れなかった方も、猪木さんに対しての感謝の気持ちというのはあると思うんですね。いやー、僕なんかが弔辞を読ませてもらったのも、ホントにおこがましいと思ったんですが。でも、思いの丈を伝えることができて良かったです。
──名前は猪木さんから一字いただいたんですか?
棚橋 そうなんですよ。皆さん、僕もあんまり言ってないですけど、チョコチョコしか言ってないですけど、「棚橋弘至」の「弘」は一文字で「ひろし」って読めるんですけど、あえて止め字で「至」という字が「猪木寛至」の「至」と一緒で、ウチの父が猪木さんのファンだったということで、一字いただいたんですけど、息子はまんまとレスラーになってますんで、導かれるようにしてね。
──それはお父さんから子供の頃に聞かされていたんですか?
棚橋 全然知らなくて。で、大人になってからですね。「猪木さんの字と一緒なんだけど」って言ったら、「実は昔ファンでね」って。
──全然知らなくて、プロレスラーになってから知った?
棚橋 そうですね。プロレスラーになってからですね。いやぁ、ウチの父ちゃん、グッジョブですよ(笑)。名付けの名手と呼ばしてもらいたい。
──それを聞いてから背負う部分とかは?
棚橋 いやもうね、本当にこれから猪木さんの「猪木寛至」でしょ? 「棚橋弘至」でしょ? 名前に「至」っていう字が入ってる人が、第3の「至」が出てくるかもしれない(笑)。
──棚橋ファンのお父さんが名前を付けて、その子供がプロレスラーになってっていう。
棚橋 そうですね。猪木さんの字じゃなくて、「棚橋弘至」の「至」が受け継がれていく。それはドラマチックですね。でも、それだと猪木さんが薄れちゃうんで。
■武藤敬司さん、蝶野正洋選手のコメント
──お別れ会が終わって、改めて一言いただけますか?
武藤「やっぱり改めて来場している人たちも凄い人ばっかりだから、猪木さんって凄かったなって思いますね」
蝶野「まぁ、先日は武藤さんが素晴らしい引退試合をやって、あれは多分猪木さんに対するいいお土産というか。やっぱりプロレスを通じて猪木さんの活躍とか、それ以外の政界での活動、自分なんか猪木さんと一緒に回った東日本大震災の復興とか、そういう姿も見てましたんで、本当にアントニオ猪木とそれから猪木寛至と、たくさんの顔を持ってますから、そういった形で今日もたくさんの方たちが駆けつけてもらったんだなっていうのを見ていて改めて感じましたね」
──改めて猪木さんとの思い出は?
武藤「先程、蝶野が猪木寛至って言ったけど、俺の中ではね、猪木寛至って一切ないんですよ。常にアントニオ猪木で、本当に24時間アントニオ猪木しかなくてね。この間も長州力のなんていうの? ラジオみたいなの?」
──ポッドキャスト?
武藤「藤波さんと長州力と俺と蝶野でやったんだけど、藤波さんは猪木さんの歴史をいっぱい知ってるよ。猪木さん、昔、ライオンを飼ってたんだよ? マジで」
蝶野「言ってたよ(笑)」
武藤「で、ガラガラヘビを飛行機で持ってきたらしいよね。言ってたよ。郵送か何かで持ってきたって(笑)。当時はそれが許されたらしい、法律の中で」
蝶野「規格外だよね、やってることがね」
武藤「うん、規格外」
──去年の10月に亡くなられて5カ月経って、お二人の気持ちの中では区切りなんでしょうか? それとも猪木さんへの思いっていうのはこれからもずっとという形になるのでしょうか?
武藤「猪木さんと一緒に汗を流して練習した、試合したっていうのはおそらく俺とかの時代までだと思うんですよ。今日、棚橋とかもみんな言ってたけど、彼たちは試合もしてないし、汗も一緒に流してないんだよね。ということは、多分、俺も先日引退して、おそらく猪木さんの教えを直で感じてたのは俺たちまでなんですよね。だから、俺がいつも言っているのは、もしかしたら昭和の時代のプロレスっていうのは、俺が引退したことで終焉かなって思ったりしますよね」
蝶野「まあ、でも一つの区切りは区切りだと思いますよね。自分の中でも一つの区切りになるし、プロレスの歴史的にも一つの区切りになると思うし、でもそれを繰り返していくのが歴史ですから、またこれから新しいものがどう変わっていくのか。自分も猪木さんの志の中で何か繋げていくものはないのかっていうのは、例えばボランティア活動だったりとか、社会貢献だったり、そんなようなことは自分の中でやってきているんで、そういったものは影響されてきましたんで、続けていこうと思っていますよね」