試合開始前、7月14日(土)に逝去されたマサ斎藤さんの追悼10カウントセレモニーが行われた。リング上には、明治大学時代の同級生でもある坂口征二相談役が登場。マサ斎藤さんと交流の深かったタイガー服部レフェリーが遺影を持ち、10カウントゴングの中で黙祷をささげた。
謹んで、マサ斎藤さんのご冥福をお祈り致します。
■囲み取材の模様
――マサ斎藤さんは坂口さんの大学の同級生ということですが。
坂口「昭和36年に入学して、彼はレスリング部で私は柔道部で、大学4年ぐらいからかな? 強くなって全日本とグレコローマンの2冠を獲って、東京オリンピックにも出てね。あの頃は運動部同士、ものすごく仲が良かったから、俺もたまにレスリングの練習に行ったりしてたから向こうとも一緒にやってて。彼が卒業する時、『俺は日本プロレスへ入る』ってみんなに言って、体育会の仲間で送別会をやって、『頑張れよ』ってね。まさか俺がその3年後に日本プロレスに行くと思わなかったし(笑)。それから彼はアメリカに行って、俺が日本プロレスにいて、最後に猪木さんが抜け、馬場さんが抜け、俺と大木(金太郎)さんがやってた時に彼が助っ人でアメリカから帰ってきてくれてね。それで辞めた後、また新日本プロレスにも来てくれたっていう。そういうのでずっと付き合いがあってね、猪木さんとああいう闘いをやってくれたし、そのあと社長をやって(現役を)引退したら彼も引退して、外国人の係りをやってくれてずっと協力してくれて、そういう中でああいう病気を患って、ちょっと一歩引いてくれたけど、30年以上の長い付き合いで。何回か具合が悪いってことで気にはしてたけど、こういう目にあって寂しいなと思いますよ」
――マサ斎藤さんはどういった方でしたか?
坂口「めんどうみのいい人で、(タイガー)服部は明治のレスリング部の後輩だからね」
――服部さんはレスリング部の後輩ということですが、プロレスへのキッカケはマサ斎藤さんですか?
服部「ちょうどボクが大学1年の時、マサさんが4年生だったんですよ。で、坂口さんと部は違うんですけど、ボクはレスリング部でしたから。それで卒業してマサさんはプロレスの世界へ入って、いまでも覚えてますけど、羽田からちょっと寂しそうな感じでアメリカへ遠征行って。その3年ぐらい後にアルゼンチンで世界選手権があってボクが行ったんですけど、その空路でまたロスに行ってマサさんと再会して、それからしばらくして今度はフロリダでアマレスの全米選手権があったんですよ。で、ちょうどマサさんがそこにいて、ボクがまた会ってそこから彼にこの仕事に導いてもらって、その頃は長州(力)とかが来たり。まぁでも、ビックリというか、半世紀以上付き合ってましたから、驚きの方が大きいですね」
――マサ斎藤さんはどういった方でしたか?
服部「いやぁ、ボクは1年生で向こうは4年生だから、神様みたいなもんだけど。ただ、プロレスやったら120パーセントレスラーですね。実直というか、まっすぐな人でしたよ」
坂口「試合前にウエイトやって、ビルドアップして、いつも色を濃くして身体をつくって、彼はそういうのを心がけてたね」
――坂口さんとがマサ斎藤さんとの一番の思い出は?
坂口「何回も試合をやったし、選手権かなんかもやったしね。遠慮なく2人でガンガンガンガンやりあったっていうね。俺と長州が組んで、向こうが(ヒロ・)マツダさんと斎藤さんですごい試合をやったとか、そういう思い出がありますよね。ホント、試合をやるときは泣いてでも目一杯やるっていうヤツだったね。巌流島なんかも、俺、立ち会ったけど、あの2時間永遠とね、長い一日だったけど、アイツよくやったよな。いろんな思い出があるよ。大阪城でもね、ちょっと暴動が起きたとか。原因をつくってくれたしね。両国国技館では、たけし(プロレス)軍団がベイダーを連れてきて暴動になって、何か月か使用禁止になって。俺が大阪城へ謝りに行って、両国に謝りに行って(笑)。それだけよく仕事はやってたよ。また一人仲間が去ったっていうのは、ちょっと寂しいですね」