激動の2016年の新日本プロレス。今回は、目前となった2月14日(日)『 THE NEW BEGINNING in NIIGATA』新潟・アオーレ長岡大会でのインターコンチネンタル新王者決定戦へ向けて、『ワールドプロレスリング』解説で知られる“GK”金沢克彦氏が試合の見どころを執筆!
■自身のパワーがコントロールできないまでに爆発、対戦相手を壊してしまう。ケニー・オメガはクラッシャーそのもの
新日本プロレスの恒例行事、プロレスファンにとってのプロレス初詣でと言われる1.4東京ドーム大会。年初めのビッグイベントでありながら、1.4には1年間の集大成という意味合いが強いのだ。
だから、新日本のレスラー、スタッフにとってのお正月は1.4ドームを終えてから。そこでひと息ついて、1月下旬から新春シリーズに突入するというのが、20年以上もつづくひとつのパターンであった。
そういった通例をぶち壊すほどのインパクトを放ち、日本マット界に激震を呼んだのが、1.5後楽園ホール大会。当日、米国の一部メディアから「中邑真輔、AJスタイルズがWWE入りするらしい」という情報が流れ、それがあっと言う間に拡散され日本まで伝わってきたのだ。
不穏な空気に包まれるなか、行なわれたCHAOS(中邑真輔&YOSHI‐HASHI)vsBULLET CLUB(AJスタイルズ&ケニ—・オメガ)のタッグマッチ。前日、IWGPインターコンチネンタル選手権と“ベスト・イン・ザ・ワールド"の称号を賭けて闘った中邑とAJ。この2人の去就も含め、戦前はこの両選手が主役であったことは間違いない。
ところが、最後にすべてを持っていったのはケニ—・オメガだった。前日、オメガはKUSHIDAの巧妙な丸め込みに屈して、IWGPジュニア王座から転落している。そのオメガが必殺の片翼の天使で中邑を堂々ピンフォ—ル。
さらに、BULLET CLUB(以下、BC)のリーダー格であるAJにも片翼の天使を決めてから、掟破りのスタイルズクラッシュ。約1年半にわたりIWGPヘビー級戦線のトップで活躍してきたAJをBCから追放し、自ら新リーダーとなり中邑のインターコンチへの挑戦を表明した。
その行動は瞬時に理解できないほど、衝撃的だった。
2014年10月末をもって所属していたDDTを離れ、新たな戦場を新日本に求めたオメガ。その時点ですでに6年以上も日本をホームリングとしてきたオメガは、日本語も話せるし、読み書きも得意。ここまで日本に馴染んでいる外国人レスラーというのは他に類を見ないほどだった。
その男が、過去を消し去った。ヒールユニットであるBCのメンバーとして、日本語を捨てたし、かつてのパートナーである飯伏幸太とも決別した。
今回はジュニアを捨てた。いや、脱皮したといったほうがいいのだろう。それほどオメガという男は、もう何年も前からジュニア離れしていたのだ。身体能力の高さでは飯伏やAJにも劣らないし、パワーでは彼らを凌駕しているかもしれない。
正直、遅すぎたくらいである。なかなか表には出てこない話だが、過去4回出場した『BEST OF THE SUPERjr』の公式戦でオメガに記憶を吹っ飛ばされた選手が何人もいる。DDT時代には、ノアのエースである丸藤正道の肩を破壊して病院送りにしてしまったこともあった。
ジュニアの枠では収まりきらないパワーが、本人の意思ではコントロールできないまでに爆発し、対戦相手を壊してしまう。まさに、クラッシャーそのものなのである。
いずれにしろ、タッグマッチとはいえ、中邑を完全ピンフォールしてのけた実力は本物であり、ヘビー級のトップ戦線で十二分に通用することを満天下に示したわけである。この“1.5の乱"で、オメガは2.14新潟・アオ—レ長岡大会でのインターコンチンタル王座決定戦への出場権をもぎ取った。
自分の過去を消し去り、AJまで消し去ったオメガは、そのキャッチフレーズ通り、ザ・クリーナーと化している。
■「中邑が、『棚橋さん、老けこむにはまだ早いですよ!』とエールを送ってくれたようにも思えます」
中邑が心血を注ぎ、真輔カラ—に染め上げた白いベルト。その重さを誰よりも知り抜いている男が、オメガの対戦相手“Ⅹ"として名乗りでた。エース・棚橋弘至である。
1・30後楽園ホールで行なわれた中邑真輔壮行試合。これが最後となるかもしれない中邑とのマッチアップを噛み締めるように棚橋は闘っていた。リング中央で対峙して最初に放った強烈な張り手は、送別の1発。聞くところによると、「行ってらっしゃい!」と叫んで平手を飛ばしたという。
棚橋からの餞別はそれだけではなかった。試合後、オメガがリングサイドに現れて、インターコンチを返上した中邑を挑発。2人の間に立ち塞がったのが棚橋だった。
「インターコンチ、俺しかいねぇーだろ!」
自ら“Ⅹ"として出陣を決めた。その後、観客のコールに合わせてⅩポーズを連発。これが、棚橋らしさ。中邑が去っていく喪失感、オメガが現れた不穏な空気。そんな会場のムードを明るく一変させしまったのだ。
大会終了後の共同インタビューで、まだ涙の余韻が覚めない中邑の表情にようやく笑みが浮かんだのも、棚橋の話題になってからだった。
「これ(※Ⅹポーズを真似て)ですよ(笑)。棚橋らしいなあと。まあ、でも本人のなかでは最高にカッコよかったんでしょうけど」
会社、仲間、ファンへの感謝の言葉ばかりを連ねていた中邑の口調が、ここでガラッと変わった。ほんの少しだけど、真輔らしさが垣間見えた。
「あれ、俺には絶対できませんよ。Ⅹに合わせてⅩポーズって、まんまじゃないっすか(笑)。だけど、あれを恥ずかしげもなくできるからこその棚橋弘至なんでしょうけどね」
もし、中邑の心の内を読むならそんな感じになるだろうか(笑)。2005年1月4日、東京ドームのメインイベントのリングで初の一騎打ちに臨んで以来、11年かけて紡いできたライバルストーリー。
IWGPを賭けて、インターコンチを賭けて、また『G1 CLIMAX』の覇権を賭けて、17戦のシングルマッチ。戦績は、棚橋の9勝7敗1分け。その1試合、1試合に新日本の歴史そのものが詰まっている。
激しく反目し合った時期もあった。
「棚橋弘至をライバルだとか特別な目で見たことなんて一度もない。むしろ、俺が惹かれるのは、底知れないパワーを持った中西学であったり、並はずれた運動神経を持つ飯伏幸太であるとか、自分にないものを持ったレスラーなんで」
「中邑は完全に(アントニオ猪木の)ストロングスタイルの呪いにかかっている。それをファンが思うのであれば祈りであって、彼の場合は呪いです。その呪縛を解けるのは俺しかいない」
リングを離れても、プロレス観がぶつかり合った。それがここ数年、お互いを完全に認め合った。
「自分が(肉体改造のため)アメリカから帰ってきて、ある種迷走したり怪我をしている時期に、本当に捨て身で新日本プロレスの頭を張っていた。もう誰も文句を言えません、というぐらい身を挺してね。棚橋選手はつねに120パーセント。その継続力という部分では尊敬に値しますね」
「結局、ストロングスタイルの呪いを解いたのは俺じゃなくて、彼自身だった。ボマイェというネーミングにしても100点です。ボマイェを飲みこんだんですよ。中邑が自我を解放し始めたとき、脅威を感じましたね。『やべぇ、俺にはできないとこ行きやがった』って」
そして、別れのとき。少しばかり棚橋をイジッて笑ったあと、中邑はこうつづけた。
「あとは任せたぜ! って言えるやつがこんなにもいるので、自分は潔く『行ってきます!』と言えるんです」
棚橋にも、つづきがある。
「ドームでオカダに負けてすべてを失ったような気にもなってましたけど、火が点きましたね。中邑が、『棚橋さん、老けこむにはまだ早いですよ!』とエールを送ってくれたようにも思えます。いろいろ心配してくれる人もいるけど、大丈夫です。俺がいるから!」
真輔カラ—に染まった白いベルトを、棚橋カラ—に染めること。それが新日本の看板を背負ったエース棚橋の使命となる。
一方、揺れ動く最強ヒールユニット・BCの建て直し、新リーダーを証明するためにインターコンチ強奪を狙うオメガ。
●金沢克彦(かなざわ・かつひこ)
1961年12月13日、北海道帯広市生まれ。
青山学院大学経営学部経営学科卒業後、2年間のフリ—タ—生活を経て、1986年5月、新大阪新聞社に入社、『週刊ファイト』編集部・東京支社に配属。1989年11月、日本スポーツ出版社『週刊ゴング』編集部へ移籍。2年間の遊軍記者を経験した後、新日本プロレス担当となる。1999年1月、編集長に就任。2004年10月まで5年9カ月に亘り編集長を務める。同年11月、日本スポーツ出版社の経営陣交代を機に編集長を辞任し、同誌プロデューサーとなる。翌2005年11月をもって退社。
以降、フリーランスとして活動中。現在は、テレビ朝日『ワールドプロレスリング』、スカパー!『サムライTV』などの解説者を務めるかたわら、各種媒体へフリーの立場から寄稿している。
●金沢克彦ブログ「プロレス留年生 ときめいたら不整脈」