9月27日、神戸・中央区の元町高架下にあるプロレス&スポーツバー『リングソウル』で中邑真輔 選手のトークショーが行われた。
通常、同所でのイベントは神戸大会や尼崎大会のプロモーションとして開催されるが、今回 は神戸大会(9月21日)終了後とあって“報告会”となった。
中邑選手のトークショー自体が珍しいこともあって、遠くは岡山、名古屋、千葉、宮城から駆けつけたファンの姿も。同所でのイベント 記録を樹立した一方で、初めて中邑選手のナマの声を聞くファンが目立ったのも、今回のトークショーの特長。
“Yeaoh!”サングラスを着用、イヤォトラセブンとして中邑選手が姿を見せただけで、悲鳴にも似た歓声が上がる。そして会場に 集まった超満員のファンから“白いベルト”奪回を祝福されて乾杯した。
まずは神戸大会のインターコンチネンタル戦の話題に。中邑選手は「ファレがデカくて…。今、150kgぐらいあるんじゃないんですか? 毎日試合をするたびに大きくなってんなって。分厚さが闘うたびに違うんで。ただ、神戸の試合では中盤、すごく疲れてるなっていうのがわかりましたね。汗のかき方も尋常じゃなかったんで。それでも以前闘った時より威圧感ありましたし、今の新日本の選手の中では 一番、成長する度合いが高いんじゃないですかね」と振り返った。
ベルトを奪回した今後に関して、「次の挑戦者? ファレかな」「どんだけ関西のビッグマッチでファレとやってんだよ」と笑わせた後、「何回も同じ相手と闘うのは精神的にきつい。初対決の方が、自分の中でテンションが高まるのでやりやすい」と語る。
「外国人選手と闘うのは好きな方。ほとんどの選手が苦手としてると思うけど、外国人選手と闘うと世界を感じる。人種の違いとか。本能に訴えかけてくるんでしょうね。言葉にできない恐怖感とか。シェルトン・X・ベンジャミンは野生動物みたいだい。AJスタイルズはスケボーやらしたらうまそうだなって。レスラーとしては背が低い方だけど、ヘビー級と闘うにあたって自分の戦術としてオリジナル性の高い技を使うのと、それができる運動神経を持ってる。決してハイフライ(の技)だけじゃない」と独特の選手分析を披露するなど話は広がっていった。
次に『G1 CLIMAX 24』の話題に移ったものの、優勝を逃したこともあって「すごい遠い昔のこと。思い出したくないですね」。それでも、「最近は東北のファンが熱い」と印象を述べた。そこから会場談義になり、「会場より、地方によってお客さんの雰囲気が違う。おとなしいというか、育ちがいいなと感じるのは北陸。座って静かに試合を見ている」。
「クネクネ」といわれる中邑選手のファイティング・スタイルだが、「格闘技で構えってあるでしょ? 構えで力が入って疲れたらダメ。いろんなもの(攻撃)に反応しないといけないわけだから、構えでは最大のリラックスを求めないといけない。自分の求めるスタイル が力を使わないで(闘う)っていう部分で、力を抜いて練習していく中で、自分の反応を良くしようと思って脱力していったのと、手足が長いっていう部分を(有効に)使おうって考えたのもあって、あのようなスタイルになった。あとは人に真似されたくないっていうのもあって」と、独特のスタイルに到達した秘密を明かした。
モロッコ旅行記を紹介(ちなみに次に行きたいのは「サハラ砂漠」)した後、オリジナルカクテル(モロッコの国旗をイメージしたカラーで「ハッサン」)を考案。
そして撮影会を挟んでの後半は恒例のパネルトーク。今回のテーマは「中邑真輔の人生を振り返る」。
■幼少時代
「いろんな時期がありましたね。やんちゃだった時期もあれば、内向的だった時期も。プロレスというものの存在を知ったのは2歳ぐらい。野球中継が嫌いで、祖母の部屋に行くとプロレスやってて。だから金曜夜8時の時代をちょっとだけ知ってます。ピンク色のジャンパーを着た藤波辰爾の姿とか。それから小学生高学年ぐらいにはプロレス(中継が)が土曜の夕方になって、『少年コミック』にプロレス漫画があって、欄外にプロレス豆知識が載ってたんです。『初代タイガーマスクの正体は佐山聡』って書いてあって、『何だって!?』ってビックリして。マスクマンは正体不明で…って思ってたのに。2代目タイガーマスクの正体も書かれてあって。それで素顔が見たいなと思って雑誌を買っても、佐山聡は載ってない。それでプロレスにのめり込んでいきました。特に誰かのファンっていうわけじゃなく、全体的に見てました。そのうち周りをプロレスファンにしていって…。プロレスラーになろうと思ったのは、中学時代に東京ドームの長い花道を獣神サンダー・ライガーが歩いているのを見て、ここを歩きたいなと思って」
■中高生時代
「中学時代はバスケットボールをしてました。中学3年の三者面談で『プロレスラーになりたい』と言って。中学を卒業したらプロレスラーになるか、中国に留学してジャッキー・チェンになろうと思ってて。とりあえず中国に行ってみるかと向こうの学校の資料を取り寄せたら、食堂の写真があって、どう見ても大皿に蛙が盛られてて。自分、蛙がダメで。それであきらめました。で、高校に入ってレスリングを初めて。最初は『ここで俺ならジャーマン出すな』『ダブルアームスープレックス出すな』って思ってたけど、やってみたらそんなもの…。大学までレスリングを続けて、大学でレスリングするだけじゃなくていろんな格闘技も練習して。新日本プロレスに入ったら、そうそうたるアマレスエリートがいて。永田裕志は全日本王者、ケンドー・カシンもそうだし、中西学に至ってはオリンピックに出てるんですよ。(同じ)京都出身なんで、もう神様みたいな存在」
■新弟子時代
「大学4年の9月ごろに入門テストを受けて。そのときはジュニアの選手も募集するということで身長規定を取っ払って。すると募集がすごく多くて。その日に合格を伝えられたのが自分と後藤洋央紀、その後、田口隆祐と長尾浩志、YOSHI TATSU(山本尚史)。僕らの年から木戸修コーチになりまして。辞めるという選択肢は消し去ってましたね。辞めたら一生、『アイツは辞めた』って言われるだろうと思って」
「デビュー戦(2002年8月29日、日本武道館、vs安田忠夫)はよくやったなと思いますね。今までやってきた格闘技経験を出すしかないと思っていたんで。当時はデビューするまでプロレスに関する練習はほとんどしなかったんで。要するに武器がないし、総合格闘技にしてもそんなに経験がないし、やれることだけやろうと。(同年大晦日には総合格闘技ルールでダニエル・グレイシーと対戦、翌2003年にはデビュー1年未満で『G1 CLIMAX』出場など)次から次へとありえないことばっかりだったけど、僕にとってはそれが普通だった。(2003年12月9日には天山広吉を破って、史上最年少24歳でIWGPヘビー級王座戴冠した時は)周りは敵しかいないと思ってました。(IWGP王者のままアレクセイ・イグナショフと対戦した時は)自分にしかできないことはなんだろうって考えた上で、対世間ということも考えて、この選択肢しかないだろうって。やっぱり緊張はしましたね。ガチガチでした。クネクネ? そんなのできる状況じゃなかった(笑)。今になって、とんでもないことやったんだなって。(今、総合格闘技からオファーが来たら?)その必要性とか、条件はいろいろありますね。かつ、それをしなければいけないという理由付けはほしいですね。その時の気分もありますけど」
■新闘魂三銃士
「当時、2004年ぐらいでしたか、安直な考えでやったと思うんですけど、三者三様で『イヤだな』と思ってましたね。自分が最初に飛び出したと思ってたんです。先輩たちを飛び抜けてIWGPのベルトも巻いたし。みんな(棚橋弘至、柴田勝頼)先輩なのに…って思ってて、一緒にされたくないって。彼らとやってること違うし。『みんなができないことやってきたでしょ?』と思ってたからイヤだった。後楽園ホールで1度、3人で組まれましたけど、2人ともタッチしないもん。要は俺が俺がで。僕が(同い年だけど)キャリアは一番下で、棚橋さんも(柴田の)後輩になるんですよ」
■G1 CLIMAX 24 柴田戦
「(10年ぶりに柴田と闘って)別にって言ったらおかしいけど、ビジュアルはそんなに変わってないから。逆に向こうからしたら不思議な感じですよね。『何だ、こりゃ!』って。こっちからすれば、そう驚きはなかったですね。向こうもいろいろ経験してますけど、こっちも比較にならないほどいろいろ経験してますから。でもやっぱり、『だから何だ!?』っていうのが僕の中にありますね。周りが乗せてる部分があるんで、僕はそれも面白いかなと思ってそのままにしてますけど。でも、柴田選手と闘った時に『ピュアだな、この人は』って思いましたね。それがいいも悪いもどちらでもない」
■CHAOS
「結成した当初はこれ以上ないブーイングを浴びて。でもメンバーは、レスラーの中でも技術的に評価の高いプロ集団って感じで。どこで間違えたのか、YOSHI-HASHIとオカダを引き入れて…。まぁ、引き抜いたわけじゃなく、向こうから入ってきたんだけど。 トップダウンじゃこういう組織にはならない。横並びを取るのがいいんじゃないかって。でも、そろそろいいか…。まぁ、まだ続けるんでしょうけど、ぶち壊すほどの何かがあっても面白いかなって」
集まったファンからの質問に答えた後、愛用品およびモロッコ土産のプレゼントじゃんけん大会。最後は「いろんな所でイベントやトークショーをやってますが、リングソウルは特別で余計な話も多いですけど、僕は楽しんでます。今日はありがとうございました」と挨拶。 次回のイベント開催リクエストに対して、「答えはこうだ。イヤァオ!」と叫んで3時間に及ぶトークショーは終了した。