■中邑真輔
「ちょうど僕がデビューしたとき、魔界倶楽部の総裁として活躍していらして。デビュー戦(2002年8月29日)のときも、安田(忠夫)選手のセコンドにつかれていたことを覚えています。でも、リングを離れれば、プロモーターとして、新日本プロレスOBとして、アドバイスをもらうことが非常に多かったですね。(出身が)同じ関西圏ということもありましたし、星野さんの気質的に僕みたいなヤツが好きだったらしくて、けっこうかわいがってもらいました。ちょうど小鉄さんも逝って、星野さんも逝って、なんて形容していいかわからないですけど、ただただ寂しいという気持ちです。いままでのものをなくし、新しくすればいいというのであれば、新日本プロレスである必要性がなくなる。しっかり歴史というものを踏まえていれば、あとは前に進もうが横に広がろうが(構わない)。基本は基本としてしっかり忘れちゃいけない部分がありますので、そういうことを念頭に置きながら、これからやって行きたいと思います。傍からしかわからないですけど、好きなときに好きなことをして、自分を制限しないで生きて来た方という印象が強いので、『お疲れ様でした』と(言ってあげたい)」
■平田淳嗣
「入門から30年来のお付き合いでしたからね。若いころはけっこう試合も組んでいただいたし。星野さんは口でどうこう教えるタイプじゃなくて、リングの中のファイトで『プロレスっちゅうのはこうなんだ』と教えこむタイプなんでね。当時は、雲の上のような存在で、声をかけられないような雰囲気を持っている人でした。それが、デビューして半年ぐらいで韓国遠征のメンバーに抜擢していただいて。今でも大変感謝しております。(スーパー・ストロング・)マシン選手ともよく試合をしていましたよ。マシン軍団が登場したとき、対戦相手として我先に名乗りをあげたのが星野さんだったから。『よし、俺がやってやる!』という、レスラーとしての気迫みたいなものを持っている方で、日本プロレス時代も、初来日したミル・マスカラスの対戦相手を務めたはず。魔界倶楽部を結成したとき、ケガで1年半ぐらいのブランクがあったマシン選手に声をかけて、魔界1号として復活させたのも星野さん。(ヘッドロック)パンチとか、相変わらず血気盛んでしたよね。現役を引退してから久々の巡業も、凄く楽しんでいたみたいですよ。やっぱり根っからのプロレスラーなんですね。一時、体調を崩して痩せられてしまったんですけど、気持ちは最後まで痩せなかったですね、あの方は。これでヤマハブラザーズが逝ってしまった。柴田(勝久)レフェリーもそうだし、ショックの上にショックが重なったという感じ。寂しい限りですよね。実感がないので、またそのうち神戸で試合があったとき、『よ、元気か!』なんて言ってきそうだし、きて欲しいですよ。頑張りすぎるほど頑張ってきた星野さんですからね。あとはもうゆっくり休んで下さい」
■獣神サンダー・ライガー
「星野さんは、僕が新日本プロレスへ入ったときからの怖い先輩でした。パキスタン遠征へ行ったとき、シングルマッチをやらせていただいたことを思い出します。新日本プロレスの流れというか、真髄を知ってる方だった。山本(小鉄)さんに続いて星野さんも亡くなられてしまい、創生期からの新日本プロレスイズムを持っていた方がいなくってしまうのは、凄く残念です。でも、各自が気持ちの中で新日本プロレスを育てていけばいいと思うので、これからも頑張ります」
■タイガーマスク
「僕が新日本に来たとき、(元新日本の)佐山(聡)さんの弟子ということで、凄く声をかけていただきました。『佐山は元気か?』から始まって、『お前、佐山に似てるな』とか、色々と言っていただいた記憶があります。僕自身は星野さんと試合をしたことがなくて、接点もあまりなかったですけど、やっぱり佐山さんと闘ったり組んだりしていた方ですから、僕にとってはレジェンドですし。そういう方に声をかけていただいて、すごく嬉しかったのを覚えています。星野さんが魔界倶楽部の総裁として出て来たとき、僕もパンチをもらったことがあって、やられながらも『あぁ、これか〜!』と思った思い出がありますね。それに星野さんは、体が小さくてもプロレスができるという、僕たちにとっては憧れの存在でしたから。僕も星野さんの気の強さを新日本のレスラーとして受け継いで行きたい。外道選手とのシングルマッチ(2008年12月22日)を見て凄く元気だったし、昭和のレジェンドたちがだんだん亡くなってしまうのが、本当に残念で仕方がないです。でも、僕たちは、新日本プロレスを築いて行った人たちの思いを背負って、闘って行かなくてはいけないと思います。星野さん、安らかに休んで下さい。お疲れ様でした」