ここ数年で劇的な“V字回復”を遂げたことで知られている現在の新日本プロレス。しかし、その“復活”に至る道程には、いったい何が推進力となり、どんな選手が活躍したのか?
その過程を最前線で随時見届けてきた“GK”金沢克彦氏が2010年代からの生まれ変わった“シン・新日本プロレス”に至る歴史を紐解く、注目の集中連載! ついに運命の2011年編に突入!!
文/金沢克彦
※以下、金沢克彦氏「シン・新日本プロレスが生まれた時代」第5回の序盤を無料公開!
■2011年は、新日本にとって、そればかりか日本国民にとっても忘れることのできない年となった
長らく、暗黒時代、冬の時代を経験してきた新日本プロレスに、明らかに復活の兆しが見えてきた2011年は、新日本にとって、そればかりか日本国民にとっても忘れることのできない年となった。
これまで本稿の主役は、棚橋弘至であり中邑真輔。そこに壁として立ち塞がる永田裕志、天山広吉、小島聡の第三世代を中心に記してきた。
ただし、その流れに食い込んできた3人の男たちの存在も忘れてはいけない。そこをあらためておさらいしておく必要があるだろう。
まず、2007年8月に、約1年のメキシコ武者修行から凱旋した後藤洋央紀。ヤングライオン時代、ジュニアヘビー級で活躍していた後藤を、獣神サンダー・ライガーは引き続きジュニア戦線で闘うように進言したものの、それを断り100㎏超えの分厚い肉体を作り上げ凱旋した後藤は、いきなり結果を出した。
10.8両国国技館大会で、かつて付人を務めていた天山広吉と一騎打ち。初公開の牛殺しから昇天で天山を沈めた。この一戦で爆弾を抱えていた首を負傷した天山は、頚椎損傷により長期欠場に追い込まれる。
そのインパクトから、この変型バックブリーカーは牛殺しと命名されている。いまや、世界的な流行技となり、米国マットでもこの技が出ると現地のアナウンサーは、「ウシゴロシー!!」と日本語で絶叫するほど。
その勢いをかって、11.11両国国技館では時のIWGPヘビー級王者・棚橋に挑戦。なんと言っても、一番の驚きは大会ポスターが後藤のピン写真だけで制作されたこと。
大変な冒険であるが、それほど“荒武者”には大きな期待が掛けられていたのだ。会社サイドからすれば、先行投資といっていい。
率直なところ、観客動員は大苦戦。当時の主催者発表数は、6500人と記載されているが、実質その半分程度の集客だったと思う。
当時、私もテレビ朝日『ワールドプロレスリング』の放送席に付きながら、不安な気持ちにかられていた。
ところが、メインイベントのIWGPヘビー級選手権は大爆発した。「昭和のプロレスが好き」と公言する後藤は、まさに攻めダルマと化した。ラリアット、バックドロップ、牛殺し、昇天・改とラッシュに次ぐラッシュ。そこにメキシコ遠征で培った空中戦とトリッキーなロープワークも織り交ぜていく。
棚橋も退かない。後藤の突進力を利用してのスリングブレイド、ドラゴンスクリュー。さらにナックルパンチを放った後藤に対して、怒りの急所蹴り。まるで平成版の“長州vs藤波・名勝負数え唄”を観ているかのようだ。
そして戦慄シーンが訪れた。カサドーラの体勢に入った棚橋をいまで言う“人でなしドライバー”で後藤が叩きつけたのだ。
メキシコ流でいうなら、ブカネロという選手が使う必殺のブカネロストームである。かつてメキシコ遠征中に、この技を食らった中邑をして「生きた心地がしなかった」と言わしめた危険技。
棚橋の目の焦点が合わない。それでも王者は奥の手であるテキサスクローバー・ホールドで後藤をタップさせた。
凄まじい大歓声に包まれた国技館。両者へのコールが鳴りやまない。荒武者・後藤洋央紀。新スター誕生の瞬間でもあった。
のちに“平成の名勝負”として語り継がれる棚橋vs後藤戦。私見ながら、この年の7.1横浜文化体育館で実現した全日本プロレスの三冠ヘビー級選手権、鈴木みのるvs武藤敬司の初一騎打ちと双璧といっていい、2007年度のベストマッチであった。
翌2008年8月の『G1』で初出場初優勝の快挙を達成した後藤は完全にトップグループへと食い込んできた。
それと前後して、主役に浮上してきたのが真壁刀義だった。2009年8月の『G1』で中邑を下して悲願の初優勝。ヒール一筋で歩んできた雑草が大輪の花を咲かせた。
翌2010年の5.3福岡国際センターでは、またも中邑を破ってIWGPヘビー級王座を初戴冠。プロレスリング・ノアの潮崎豪、中邑、田中将斗(当時CHAOS/ZERO1)を相手にⅤ3を達成している。
その当時から、新日本の主力メンバーは、棚橋、中邑、後藤、真壁が四天王を称されることが多くなった。
■棚橋の言葉から、ますます内藤への期待が膨らんでいることを痛感した。ネクスト棚橋。その時点で、私自身もそう確信していた
ここで、もうひとり大切な男の存在を忘れてはいけない。現代のカリスマ。大ブレーク前夜の若者。“スターダスト☆ジーニアス”と呼ばれ始めたころの内藤哲也である。
内藤が頭角を現したのは、2010年からだった。裕次郎(現・高橋裕二郎)とのコンビ、『NO LIMIT』で半年余のメキシコCMLL修行から2009年末に凱旋。2010年3月開催の『NEW JAPAN CUP』2回戦で棚橋からスターダストプレスで初勝利をあげた。場所は、名古屋・愛知県体育館。
4月から高橋とともにCHAOS入りした内藤は、8月の『G1』公式戦でも棚橋と対戦。両者一歩も退かず30分時間切れで引き分けた。このときも、会場は愛知県体育館。
この試合あたりから名古屋での内藤人気は爆発的なものとなった。のちに、大阪で大ブーイングを浴びる羽目となる内藤。「大阪のリングに上がるのが怖かった」と述懐するほど激しいブーイングに晒されることになるわけだが、先に内藤は名古屋でヒーローとなっているのだ。
この年3度目の一騎打ちは、10・11両国国技館で組まれた。互いに爆弾を抱えるヒザを殺し合う。スピーディーな攻防は、一瞬も止まらずガッチリ噛み合った。フィニッシュはエグい角度で決まったテキサスクローバー・ホールド。エースがしっかりと借りを返してみせた。
「(内藤は)素晴らしいよ。でも、まだ試合は渡さない。エースは力強くあってこそエース。一番オレがわかっているから」
一方の内藤は強気の姿勢を崩そうとしない。すでに、この時点で内藤の強気のコメントというのは出来上がっている。その部分は、ロス・インゴベルナブレス・デ・ハポンの内藤になる前から変わっていないことに気づくだろう。
「壁なんて感じないよ。勝負なんて時の運だからさ。オレ一個、見つけちゃったんだよね。今年の対戦成績、1勝1敗1引分けなんだよ。オレはもう一回できたらやりたいけどね。自称エース棚橋、年内にもう一回やろうよ」
もう、明白だった。少年時代、武藤敬司の大ファンであり、プロレスラーを志してからは棚橋を目標としてきた内藤。現実に、その目標が手のとどくところにまで近づいてきた。
それは棚橋も認めていた。自分のあとにつづく男は内藤だろう。その証拠に、試合後の棚橋は私にこう語りかけてきた。
「最後のテキサスクローバー、そうとうエグい角度だったでしょう? やっぱり相手は内藤ですからね。あれくらいやらないと」
そして、実際に4回目が実現した。またしても舞台は名古屋だった。12・12愛知県体育館のセミファイナル。年内最後のビッグマッチであり、すでに棚橋の視線は1.4東京ドームでの小島への挑戦に向けられていた。
試合が始まると、凄まじい“内藤コール”が響いて、思わず棚橋は頭を抱えるポーズ。ピタッピタッと両者の攻防はハマっていく。先にスターダストプレスを仕掛けた内藤が自爆。これで生き返った棚橋が、ハイフライアタックから正調ハイフライフローで内藤を仕留めた。
試合後、興味深いシーンを目撃した。この時点でIWGPヘビー挑戦をアピールすることなく、棚橋はサッとリングを降りて足早に引き揚げて行ったのだ。残された敗者の内藤は、会場に向かって深々と一礼するとリングを去った。
大会終了後、そのときのアクション、謎掛けを棚橋が明かしてくれた。
「内藤があの試合をどう締めるのか、あえてオレは先に降りてみました。彼はこの名古屋で絶大な支持をもらっている。『次はこいつだな!』というような大声援ですよ。それを全国区にしきゃいけないわけですからね」
この棚橋の言葉から、ますます内藤への期待が膨らんでいることを痛感した。ネクスト棚橋。その時点で、私自身もそう確信していた。
「オレが目指しているのは、ベルトとか欲しいけどそれじゃないんだよ。お客さんに伝わるレスラーになりたいんだ。ただ、ただ、この棚橋戦に関しては、そんなことよりも棚橋を倒すことが優先だから」
内藤は素直に胸の内を吐露した。キャリア4年半。やはり当時からブレていない。この後、内藤にはもっともっと大きな試練が待ち受けている。そして、「棚橋」の部分が「オカダ」へと変わっていくわけだ。
■2011年1.4東京ドーム、棚橋が時代を掴んだのか、時代が棚橋に追い付いたのか? 継続は力なり。おそらく、その両方だろう。
2011年の1.4東京ドーム大会。1990年代のドームプロレス全盛期の観客動員にはとうてい及ばない。それでも、確実にファンの熱はすこしずつ戻ってきた。
外敵王者・小島聡に挑むのは、前年度の『G1』優勝戦で小島に敗れている棚橋。このシチュエーションで思い起こされるのが、2年前の1.4東京ドームのメインイベント。外敵王者・武藤敬司に棚橋が挑んでいった師弟対決だ。
率直なところ、会場の声援は6対4で武藤が上まわっていた。武藤のカリスマ的人気は団体、戦場を問わない。新日本ファンでさえ、「武藤が帰ってきた!」とその存在をウェルカムで迎えてしまうのだ。
ただし、その2年前との違いは明白となった。この2年で棚橋は新日本ファンの信頼を勝ち得た。棚橋が時代を掴んだのか、時代が棚橋に追い付いたのか? 継続は力なり。おそらく、その両方だろう。
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★『“シン・新日本プロレス”が生まれた時代』! 第4回「生まれ育ったリングでブーイングを浴び続けた棚橋、“ストロングスタイル”という言葉を復権させた中邑」
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