ここ数年で劇的な“V字回復”を遂げたことで知られている現在の新日本プロレス。しかし、その“復活”に至る道程には、いったい何が推進力となり、どんな選手が活躍したのか?
その過程を最前線で随時見届けてきた“GK”金沢克彦氏が2010年代からの生まれ変わった“シン・新日本プロレス”に至る歴史を紐解く、注目の集中連載・第3回!
文/金沢克彦
※以下、金沢克彦氏「シン・新日本プロレスが生まれた時代」第3回の序盤を無料公開!
■わずか6年弱の間にこれだけトップの人事が変遷しているのだから、組織の混乱ぶりが窺えるというものだろう
2000年代の新日本プロレスが『暗黒時代』、『冬の時代』と称されたことを象徴する事例として、会社組織のトップが次々と交代したこともあげられる。
1990年代のドームプロレス全盛期を作り上げた坂口征二社長が、1999年6月に退任。代わって、藤波辰爾が社長に就任した。
2004年6月には、アントニオ猪木の肝いりで経営コンサルタントの草間政一が社長に就任。ところが、翌年5月に草間氏は解任されて、猪木の娘婿であるサイモン・ケリー猪木が社長に就任。
2005年度の新日本プロレスの売上は、15億円まで落ち込んでいた。1990年代後期の半分以下である。同年11月、倒産の危機に瀕していた新日本を買収したのが、株式会社ユークスだった。これに尽力したのが現・新日本プロレス会長の菅林直樹(当時・ソフト事業部部長)。
これによって、新日本プロレスにアントニオ猪木が及ぼす影響、発言権はゼロになった。
また、サイモン社長は同年10月に、現場監督として長州力をふたたび迎え入れることを決断している。
2007年3月、サイモン社長が辞任し、4月に新日本フロント一筋の菅林新社長があとを引き継ぐこととなる。わずか6年弱の間にこれだけトップの人事が変遷しているのだから、組織の混乱ぶりが窺えるというものだろう。
■新日本が活況を呈していてこそ、専門誌(紙)も売れる。その事実だけは曲げようのないものだった。
ちなみに、私個人の話になるが、プロレスを扱う専門誌(紙)もかつてない苦戦を強いられていた。いわゆる出版不況というのは、1990年代後半から始まっていた。つまり、ネット媒体、SNSの普及によって、新聞、雑誌を購買する人が極端に減少したのである。
その一方で、プロレスマスコミ界だけは、なぜか安泰だった。私が、『週刊ゴング』の編集長に就任したのは、1999年1月6日付け。2002年ころまでは部数を伸ばし、実売で10~12万部を維持して、競合誌を上まわっていた。ところが、2003年から実売数は徐々に下降線を描きはじめ、2004年に入ると6万部を切ることもたびたび。
この現象は、まさに新日本プロレスの業績不振に正比例していたのである。当時ブームであった総合格闘技を掲載しても、新日本と入れ替わるように観客動員を伸ばしていたプロレスリングNOAHに多くのページを割いても、急速に人気の出てきたドラゴンゲートなどのインディー団体を特集しても、結果は出ない。
もはや、打つ手なし! 結局、マスコミ側も新日本プロレスと一蓮托生であることを思い知らされるばかりであった。
ちなみに、『週刊ゴング』もIT企業に買収され、それに伴い私は2004年10月に編集長を辞任。翌2005年11月に退社し、フリーランスとなった。
その1年4ヵ月後『ゴング』は月刊時代からつづく39年の歴史の幕を閉じることになる。新日本が活況を呈していてこそ、専門誌(紙)も売れる。その事実だけは曲げようのないものだった。
■上場企業であるユークスは、過去のどんぶり勘定的な経営を刷新しガラス張りの組織に新日本プロレスを変革しようとしていた
現場サイドに目を移すと、2006年1月の契約更改を経て、多くの選手、関係者が新日本を去った。後藤達俊、ヒロ斎藤、西村修、成瀬昌由、吉江豊、ブルー・ウルフ、長尾浩志、竹村豪氏、長井満也、山中秀明専務、田中秀和(リングアナウンサー)ら。さらに6月には旗揚げメンバーである藤波辰爾も退団。
それだけに留まらず、もっと多くの選手が退団して新団体に流れるという情報、噂も飛び交っていた。
上場企業であるユークスは、過去のどんぶり勘定的な経営を刷新しガラス張りの組織に新日本プロレスを変革しようとしていた。
コストカット、人件費の削減もその対象となった。その結果、多くの血が流れた。選手たちにも動揺がはしった。ただし、それもまた“復活”のためには必要なことであったのかもしれない。
『暗黒時代』から『冬の次代』へ。では、新日本プロレスを死守するために残った選手たちは、どのようにリングへ挑んでいったのか?
■2.5札幌・月寒グリーンドームのメインイベントで、棚橋vs中邑は3度目の一騎打ち。観衆発表は3000人、5~6割程度の寂しい入りだった。
2005年の1.4東京ドームから幕を開けたと思われていた棚橋・中邑の新時代。ところが、現実はそう甘くなかった。2005年~2006年初頭にかけて、新日本マットの中心を担っていたのは、ベテランの蝶野正洋であり、第三世代の天山広吉、外敵の小島聡(当時・全日本プロレス所属)、藤田和之、ブロック・レスナーであった。
棚橋は2005年4月に開催された第1回『NEW JAPAN CUP』トーナメントで初優勝。一夜で準決勝(天山)、決勝(中西学)と第三世代を連破しての優勝は、内容も伴った見事な結果であった。
ただし、IWGPヘビー王座への挑戦権は一度も与えられていない。しかも、8月の『G1 CLIMAX』公式戦で実現した中邑との2度目のシングル戦にも敗退している。
一方の中邑には、二度のチャンスが与えられた。3.26両国大会で小島が保持するIWGPヘビー級王座に挑戦(60分時間切れドロー)。さらに、年明けの1.4東京ドームで当時王者だったブロック・レスナーに挑戦したものの、9分弱で敗れている。
ユークス体制になった2006年、棚橋、中邑は早々に試練を迎える。最高峰のIWGP王座はレスナーの手に渡ったままで米国にある。そんな状況下、2.5札幌・月寒グリーンドームのメインイベントで、棚橋vs中邑は3度目の一騎打ち。
観衆発表は3000人、5~6割程度の寂しい入りだった。マスコミ、観客が注目していたのはメインよりセミファイナル。新日本マット初登場となる第64代横綱の曙と長州が初タッグを結成し、蝶天コンビと激突するカードのほうにあった。ましてや、棚橋vs中邑戦が決定したのは大会の5日前。
いまでは考えられない状況である。ビッグマッチの日程が決まっていながら、マッチメイクとプロモーションがそこに追いつかない。いわば突貫工事のカード編成。そこに新体制となったばかりの混乱ぶりが表れている。
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