ここ数年で劇的な“V字回復”を遂げたことで知られている現在の新日本プロレス。しかし、その“復活”に至る道程には、いったい何が推進力となり、どんな選手が活躍したのか?
その過程を最前線で随時見届けてきた“GK”金沢克彦氏が2010年代からの生まれ変わった“シン・新日本プロレス”に至る歴史を紐解く、注目の集中連載・第1回!
文/金沢克彦
※以下、金沢克彦氏「シン・新日本プロレスが生まれた時代」第2回の序盤を無料公開!
■「オレは! 新日本のリングで、プロレスをやります!」棚橋は滑舌よく、人一倍大きな声を張り上げて叫んだ。
1999年10月10日、後楽園ホールでの真壁伸也(現・刀義)戦でデビューした棚橋弘至。同日デビュー組にはデビュー戦同士で対戦した柴田勝頼と井上亘(引退)がいる。
デビュー時から体ができ上がっていたマッチョ系の棚橋には早くも“和製ダイナマイト・キッド”という異名がつくなど、期待のルーキー。実際に、ヤングライオンのなかでも飛び出すのは早かった。
同じく3ヵ月遅れでデビューした明治大学ラグビー部出身の鈴木健三(健想→現KENSO)と“タナケン”コンビを結成し、ヤングライオンという枠から1年半ほどで卒業するカタチとなった。
“タナケン”はその後、チーム名をKOTH(キング・オブ・ザ・ヒルズ)と改称し、新日本の主流スタイルとは一線を画すようなライトなタッグコンビとして徐々に頭角を現していった。
「ボクは当時、ヤングライオンの仮面を被っていたんです。気持ちはもう将来に向いていましたから」
そう本人が懐古するように、棚橋のなかには絶対的なプロレス観が存在していた。尊敬するレスラーは藤波辰爾であり、付人を務めていた武藤敬司だった。外国人レスラーで一番憧れたのがショーン・マイケルズ。
その思いを公に吐き出すシーンが突発的に訪れた。
2002年2月1日、札幌・北海道立総合体育センター(現・北海きたえーる)でのこと。同年1月をもって、武藤敬司、小島聡、ケンドー・カシン、さらに主力フロント数名が新日本プロレスを退団。全日本プロレスへの参加は確実と見られていた。
その緊急事態に、オーナーであるアントニオ猪木が札幌大会にやって来た。第6試合終了後、マイクを持った蝶野正洋は「オレたちの上にひとり神がいる。ミスター猪木!」と、神である猪木をリングへと呼び込んだ。
猪木と蝶野がリングでマイク合戦を展開したあと、リングへ上がったのが、永田裕志、中西学、健想、そして棚橋だった。
「お前は何に怒ってる!?」
猪木が、ひとりひとりに問うていった。
「オレは! 新日本のリングで、プロレスをやります!」
棚橋は滑舌よく、人一倍大きな声を張り上げて叫んだ。その後、猪木が恒例の「1、2、3、ダァー!!」で締めたとき、棚橋だけはそこに参加しなかった。そのときの状況を棚橋も鮮明に憶えているという。
「総合(格闘技)がワーっと盛り上がったときに猪木さんがそっち側に行っちゃったじゃないですか、(PRIDEの)プロデューサーという職に就いて。猪木さんはプロレスというジャンルがあってスターになった人ですよね。あのとき、『お前は何に怒ってる?』と言われて、『あなたに怒ってますよ』と、まだ自分が言えるような立場ではなかったんで、意志を貫いたんですけど。それは猪木さんの質問に対する答えになっていない。だから会場から失笑も聞こえたんですけどね。
これ、質問に答えたら負けだなと思ったんですよ。正解がないから。答えちゃダメだっていう閃きがあって。だから闘魂注入でバーンと張られたときに、絶対に目を逸らしてなるかと思って、グッとアゴ引いて耐えて、睨みつけていた記憶がありますね」
当然、新日本の創始者である猪木へのリスペクトはある。ただし、この先、棚橋が目指す新日本プロレス、理想のプロレスラー像から、アントニオ猪木という存在が消去されたことを示唆するエピソードだった。
ちなみに、中邑真輔が入門してきたのは、その2カ月後のことだった。
■会社サイドは新世代の3選手である棚橋弘至、中邑真輔、柴田勝頼を新闘魂三銃士と命名して売り出しにかかる。
同年8月、棚橋は『G1 CLIMAX』に初出場し、公式リーグ戦で佐々木健介、越中詩郎から殊勲の白星を挙げている。すべてが順風満帆だった。次代のエース候補という声も日増しに高まってきた。
翌2003年4月に新設されたU-30(アンダーサーティー)無差別級王座の初代王者となり、6月には吉江豊とのコンビで“蝶天タッグ”からIWGPタッグ王座を奪取した。
ただ、8月の『G1 CLIMAX』では、2勝3敗に終わり決勝トーナメントには進出できなかった。ここで時代が動きはじめたのを示すのは、『G1』に中邑と柴田勝頼が初出場したこと。中邑は柴田との直接対決を制したものの2勝3敗。一方の柴田は、2勝2敗1分けでトーナメント準決勝まで進出。
柴田の場合、棚橋よりも後輩の中邑に対する対抗心に凄まじいものがあった。
「中邑が総合に出るなら、オレはK-1ルールでK-1の選手と勝負してやる!」
その言葉通り、2003年『G1』覇者である天山広吉が高山善廣からIWGPヘビー級王座を初奪取した11・3横浜アリーナ大会で、K-1日本人選手のなかで最強のハードパンチャーと呼ばれていた天田ヒロミと、K-1ルール(3分3ラウンド制)で対戦。
結果的に、2ラウンド目の2分8秒に3ノックダウンによりKO負けを喫したものの、第1ラウンド開始早々から打ち合いに挑み、ストレートをヒットさせて天田から最初のダウンを奪っている。敗れはしたものの、柴田の株が確実に上がった一戦でもあった。
それ以降、2003年の年末から2004年の年頭にかけて、中邑が急台頭しIWGPヘビー級王座奪取。さらに大晦日の『K-1 Dynamite!!』への出陣、1・4東京ドームでNWFヘビー級王者・高山善廣を破り、王座統一からNWFを封印してIWGPヘビー級王座1本での勝負を宣言した。
ただし、前回も記したように、大晦日のイグナショフ戦、1・4の高山戦で負ったダメージは大きすぎた。眼窩底骨折と鼻骨骨折が判明して入院。最高峰のベルトを返上せざるを得ない状況に陥った。
ここから、会社サイドは新世代の3選手である棚橋弘至、中邑真輔、柴田勝頼を新闘魂三銃士と命名して売り出しにかかる。ただし、3選手ともその表現の仕方に違いこそあれ、「3人をチームのように括るな」という意思を事あるごとに示していた。
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