ここ数年で劇的な“V字回復”を遂げたことで知られている現在の新日本プロレス。しかし、その“復活”に至る道程には、いったい何が推進力となり、どんな選手が活躍したのか?
その過程を最前線で随時見届けてきた“GK”金沢克彦氏が2010年代からの生まれ変わった“シン・新日本プロレス”に至る歴史を紐解く、注目の集中連載・第1回!
文/金沢克彦
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■この3年、スマホサイトでビッグマッチの総括レポートを執筆してきた。しばらく開店休業中だなと思っていた矢先のことだった。
この3月、4月と世界的なコロナウイルスの感染拡大により、世の中はとんでもない状況となってきた。当初は疫病の蔓延だけが懸念されていたものの、それが経済に与える影響は予想をはるかに上まわり、このままでいくと1930年代以来の『世界恐慌』の危機に直面するといわれている。
私自身も2月下旬あたりまでは、けっこう呑気にかまえていた。
「まあ、3.31両国国技館大会はなんとか開催されるだろう」
とんでもない、お気楽な考え違いだった。
「4月の後楽園ホール3連戦あたりからはなんとかいけるのかな?」
東京都が発令した非常事態宣言により、後楽園ホールが使用禁止となった。
当然のように、プロレス界も大打撃を受けている。この数年、大躍進をつづけてきた新日本プロレスとて例外ではない。
不要不急の場合は外出を避けて自宅待機となれば、ストレスも溜まる。テレビをつけても、新聞を読んでも、スマホを開いても、コロナウイルスの話題ばかり。世界中の国別の感染者数、死亡者数が毎日更新され記載されている。
なんともやりきれない、不安な毎日。プロレスファンの皆さんも同じ心境だろう。そんな状況にあって、新日本プロレス・オフィシャルスマホサイト担当のMさんから、寄稿の依頼を受けた。
私の場合この3年、同スマホサイトでビッグマッチの総括レポートを執筆してきた。しばらく開店休業中だなと思っていた矢先のことだった。
「こんな状況ですから、なにか金沢さんに書いてもらいたいと思って。ボクがふと思ったのは、あの東日本大震災という悲劇が起こった2011年なんです。あの直前に仙台サンプラザホールが超満員になった。棚橋さんが泣きました。新日本のスタッフや報道陣も涙を流していました。そして大震災が起こった。そのとき、新日本プロレス、プロレス界は一丸となってチャリティーイベントをやったりして、プロレスが被災者の方々にも勇気をとどけられることを学びました。同時に、格闘技ブームに押されていたプロレスの根源である『やられてもやられても、歯を食いしばって立ち上がる』という部分が改めて見直され、時代にフィットしていった。同時期に親会社がブシロードに変わったことも追い風となって新日本プロレスはV字回復してきたんです。その立役者は……」
「棚橋弘至と中邑真輔ですね」
「そうです。そのころの苦しい時代、苦難の時代があって、やがてオカダ・カズチカ選手の登場や内藤哲也選手のブレイクに繋がっていく。当時の新日本プロレスが復興した時代を当時を知らないファンに教えてあげてほしいんです」
Mさんは熱かった。思わず、「Mさん、自分で書けばいいじゃん!」と答えてしまうほどに熱かった。それは、いま現在の忸怩(じくじ)たる思いの裏返しでもあるのだろう。
ならば、書かなければいけないだろう。私流の感性で、あの時代を思い出すがままに記していこう。
■2011年に浮上のキッカケを掴み、2012年1月にブシロード体制となってからの新日本の大復活劇は、奇跡的にして、驚異的でもあった
2000年あたりから約10年の新日本プロレスを『暗黒時代』『暗黒期』『冬の時代』と評するのが、いまでは一般的となった。
そこで、まず私の解釈をからいくと、『暗黒時代』というのは大まかに2001年~2005年を指す。つまり、総合格闘技ブーム、K-1ブームの波に飲み込まれるように、新日本のレスラーたちが総合のリングへ次々とかり出されて敗北。その路線に異を唱えた武藤敬司、小島聡、ケンドー・カシンの三大人気選手が全日本プロレスへと移籍。さらには、新日本のリングでも総合格闘技マッチ(アルティメットクラッシュ)が開催された混乱の時代。
『冬の時代』とは、2006年~2010年くらいだろう。2005年11月、倒産の危機に直面していた新日本をユークスが買収。
新日本再建に向けて全力を注いだが、『暗黒時代』の負の遺産(イメージ)をなかなか払拭できずに観客動員は苦戦を強いられていた時代である。
だからこそ、2011年に浮上のキッカケを掴み、2012年1月にブシロード体制となってからの新日本の大復活劇は、奇跡的にして、驚異的でもあった。
その時代をすべて経験してきた男が、棚橋であり中邑。暗黒時代にエースであった第三世代の永田裕志を引き継ぐカタチで冬の時代を駆け抜けた2人は、Ⅴ字回復の立役者ともいうべき新世代のオカダ・カズチカへとバトンを渡した。
この約10年余の闘争を、棚橋と中邑の歴史とともに、印象深いエピソードを交えつつ振り返ってみたい。
■あくまでプロレスありき。それほど中邑真輔という若者は、プロレスラーに憧れを抱き、プロレスをこよなく愛していたのだ。
最初に飛び出した男は、中邑真輔だった。青山学院大学レスリング部出身で身体のサイズも大きい中邑は、デビュー時からゴールデンルーキーとして会社の期待を背負っていた。いや、否応なく背負わされてしまったというほうが適切な表現なのかもしれない。
2002年に入団し、同年8月29日、日本武道館で元IWGPヘビー級王者の安田忠夫を相手にデビュー。『スーパールーキー・デビュー戦』と銘打たれた試合のセコンドには師匠の木戸修、永田裕志、中西学が付いた……。
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