プロレス界随一の論客・“GK”金沢克彦氏の独特の視点から、現在進行形の新日本プロレスに関するコラムを続々レポート(不定期連載)!!
今回は「オカダと新日本が見せた “世界に通用するメイド・イン・ジャパン”!!」4.6MSG大会を大総括!
■この20年、米国マットで「ひとり勝ち」してきたWWE に真正面から挑む格好となったわけだ。
ここ数年のプロレス界を称して、「新日本プロレスのひとり勝ち」であるとか、「新日本の独走状態」という言葉がよく聞かれる。独走はいいと思うのだが、個人的には「ひとり勝ち」という表現は好きになれない。なぜかと言えば、他はすべて負けているという意味合いも込められているから。
実際に、ブシロード体制になってからの新日本プロレスは、「ひとり勝ち」を目標として掲げたわけではない。7年前、木谷高明オーナーが掲げた壮大な新日本の未来図は、「打倒!WWE」、「世界一のプロレスカンパニーを目指す」だったではないか? その第一歩が2年前の2017年7月に開催されたロサンゼルス・ロングビーチ大会2連戦。
スタートは、わずか2,300人キャパの会場からだった。そこから、新日本の世界戦略が始まったのだ。昨年5月には、ハロルド・ジョージ・メイ氏を社長に迎え入れた。日本語、英語はもちろんのこと、6ヵ国語に通じており、なにより大のプロレスファン。
世界へ挑戦する陣容は整った。あれから2年弱で新日本プロレスはROHと業務提携するカタチでついに米国ニューヨーク、世界格闘技の殿堂であるマディソン・スクエア・ガーデン(以下、MSG)に進出した。
4.6MSG決戦。大会名は、『G1 SUPERCARD』。その2日後には、「ハドソン川の奇跡」(※各自調査のこと)で有名なハドソン川を挟んだ対岸のニュージャージ州メットライフ・スタジアムでWWEの年間最大イベント『レッスルマニア35』が開催されている。
もともとWWWF→WWF時代から、MSGはWWEのホームグラウンドであり、当時人気絶頂だったハルク・ホーガンをメインイベンターに据えて、第1回『レッスルマニア』(1985年3月31日)を開催した場所もMSG。この20年、米国マットで「ひとり勝ち」してきたWWEに真正面から挑む格好となったわけだ。
■あのロス大会からスタートして2年を待たずしてMSGにたどり着くとは、驚異的という他に言葉が見つからない
かといって、新日本とWWEはかつて確固たる提携関係を築いていた。1975年~1985年の約10年間、日本びいきで知られていた当時のビンス・マクマホン・シニアとの友好関係から、“大巨人”アンドレ・ザ・ジャイアントや現役WWF王者のボブ・バックランドなど超大物外国人が新日本マットに次々と上がっている。
また、新日本経由で、ディック・マードックやアドリアン・アドニス、さらにハルク・ホーガンもWWFの大スターとなったと言ってもいいだろう。アントニオ猪木もMSGに3回上がっているし、初代タイガーマスク、坂口征二、長州力、ザ・コブラも出場している。
そして、なんといっても藤波辰爾だろう。1978年1月23日、新設されたばかりのWWFジュニアヘビー級王座に挑戦。MSGの大舞台でカルロス・ホセ・エストラーダを初公開のドラゴンスープレックスホールドで破り、新王者となった。それ以降、藤波は毎月のようにMSG定期戦で王座防衛戦を行なうようになった。
無論、新日本にかぎらずいうなら、米国マット修行中のジャイアント馬場さんが1960年代にメインイベントを張っているし、1970年代にはストロング小林、1980年代にはミスター・サイト―(マサ斎藤)、キラー・カーンが所属参戦しており、1990年代にはTAKAみちのく、ショー・フナキ、デイック東郷らが上がっている。
女子ではブル中野がWWF世界女子王者となり、JBエンジェルス(立野記代&山崎五紀)がWWF世界女子タッグ王者に君臨。
1960年代当時からWWE(WWF)=MSGというつながりが、圧倒的なブランド力となり何倍にも同団体の価値観を上げてみせていたのだ。
ワタシ個人の話でいうなら、日本では見られない殿堂MSGの空気や試合、登場するヒーローたちの闘いっぷりを小学生のころから雑誌を見ながら空想していた。
ブルーノ・サンマルチノ、ペドロ・モラレス、スーパースター・ビリー・グラハム、アンドレ・ザ・ジャイアント、ボブ・バックランド、スタン・ハンセン、ブルーザ―・ブロディ、ハルク・ホーガン……。ハンセンもブロディもホーガンも、MSG登場によって世界に名を轟かせたのだ。
そして1971年3月、初めてMSGでの試合をテレビ観戦することができた。プロレスではなく、ボクシング。世界30カ国、日本にも衛星放送されたボクシングの世界ヘビー級選手権、ジョー・フレージャーvsモハメド・アリという世紀の一戦だった。第14ラウンド、アリが初めてダウンを喫するシーンを見たときには愕然としたものだ。
無論その後、猪木、藤波、タイガーマスクらが出場する試合は、『ワールドプロレスリング』で放送されたが、あくまでMSG定期戦へのゲスト出演という域は出ていなかったと思う。
また、余談となるが、私が中学生のころ、『MADISON SQUARE GARDEN』と表記された通称マディソンバッグが発売されて、空前のヒット作となった。スポーツバッグの枠を超え学生カバンの定番となり、男女関係なく中学生の3人に1人はマディソンバッグで通学していた。大袈裟ではなく本当の話。おろらく、MSGの意味を知らない子どものほうが多かったと思うのだが……。
かくいう私はといえば、MSGの意味は充分に理解していたものの生来のへそ曲がりだったせいか(笑)、誰も持っていないニューヨーク・ヤンキースバッグで通学していた思い出がある。いま確認してみると、このバッグは日本製で日本だけで発売されていたもの。コピー商品も多数でていた。いったい、商標権などはどうなっていたのかな? 昭和50年前後の古き良き時代のエピソードである。
例によって前置きが長くなってしまった。つまり、かつて「人種のるつぼ」と称された全米最大の都市ニューヨークにおけるエンターテインメント文化の象徴であるMSGは、世界中のアスリート、アーティストが目指す最高峰の場所。そこで新日本プロレスが興行を開催するというのは、想像を超えた快挙である。しかも、あのロス大会からスタートして2年を待たずしてMSGにたどり着くとは、驚異的という他に言葉が見つからない。
ただし、新日本プロレスの選手、ROHの選手たちにとっては、もちろん、ここにたどり着いたことがゴールなわけではない。この1発目のMSG大会で、「新日本プロレスを見せつけること」、「ストロングスタイルを存分に披露すること」が最大のテーマとなる。
■30番目には超サプライズが待ち受けていた。もちろん、我々放送サイドにもまったく情報は入っていなかった。
1万6534人、札止め。会場は見事に埋まった。あえて言うなら、世界中からニュージャパン・ユニバースが集った格好だろう。
それはもう、第0試合の1分時間差バトルロイヤル~HONORランボー~(30選手参加)が開始すると同時に五感に伝わってきた。
ちなみに、私は東京・六本木のテレビ朝日スタジオから実況生中継で、歴史的な大会を解説させてもらった。日本時間でいくと、大会スタートが7日の午前7時30分。中継終了が午後1時ちょうど。約5時間30分の長丁場となった。
先に言ってしまうと、放送終了後には全身全霊を尽くしたあとで魂が抜けてしまったような感覚に陥った。心地良い疲労感を超え、燃え尽きて魂が抜けてしまったような感覚。こんな状態になったのは、20年近く解説を務めてきて初めての経験かもしれない。
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