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専修大学時代にアマレスで活躍し、72年のミュンヘン五輪に出場する。その輝かしい経歴を引っさげ、73年12月に新日本プロレスへ入門。74年8月8日、日大講堂におけるエル・グレコ戦でデビュー。藤波辰爾との抗争は“名勝負数え唄”と称され、数多くのベストバウトを生む。83年5月に維新軍団を結成。1984年12月にはジャパン・プロレスを旗揚げし、全日本プロレスに闘いの場を移す。87年5月、新日本へ復帰。89年7月、IWGPヘビー、タッグの二冠王者となる。96年8月には「G1 CLIMAX」初優勝。98年1月4日、東京ドームで現役引退し、以後は現場監督として活躍。しかし、2000年7月30日に電撃復帰し、大仁田厚との有刺鉄線電流爆破マッチで勝利を収めた。02年5月、新日本を退団。03年3月にWJを旗揚げするが、翌年に崩壊。04年10月9日、新日本の両国国技館大会に乱入。翌月より新日本へ本格参戦し、05年10月に新日本の現場監督に就任。06年4月に「NEW JAPAN CUP」初出場を果たし、5月には「LOCK UP」を始動。その後、蝶野正洋らと共に“レジェンド”を結成した。
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