2月21日(火) 18:30~ 東京・後楽園ホールにて、自身の20周年記念大会『戦国炎舞-KIZNA- Presents 真壁刀義 20th anniversary』を開催する真壁刀義選手。
今回は、雑草から栄光にたどりつくまでの“20年”をたっぷり振り返った特別インタビューを3回にわたり公式サイトで集中連載!コレを読んで、2月21日(火) は“暴走キングコング”の20周年記念に駆け付けよう!
■「戦国炎舞-KIZNA- Presents 真壁刀義 20th anniversary」
2017年2月21日(火)18:30~ 東京・後楽園ホール
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■入門してから10年くらいまでは長かった。でも、本隊に反旗をひるがえしてからはスゲー早く感じるね。
――真壁選手は1997年2月のデビューを果たし、今年20周年を迎えたわけですが、まず振り返って率直な感想はいかがですか?
真壁 長いねえ~、長い! いや、ちょっと待てよ……? そうだな、俺の場合は“長いけど短い”かもしれねーな(ニヤリ)。
――長いけど短いというのは?
真壁 いや、入門してから10年くらいまではやたら長かったんだよ。俺がくすぶってた時代な。でも、新日本の人気が落ちてた時代、そこで本隊に反旗をひるがえしてからはスゲー早く感じるね。
――06年に結成したヒールユニット「G・B・H(Great Bash Heelの略)」ですね。
真壁 ウン。アレからすべてが変わったよ。「会社もほかのレスラーもクソ食らえ!」っていう思いで突っ走ってさ。そのあとは、あっという間って感じだな!
――そこがキャリアのターニングポイントなわけですね。デビューから順を追って聞いていきたいのですが、そもそも真壁選手はプロレスラーを目指したときに、新日本入門しか考えてなかったんですか?
真壁 ウン。基本的にはそうだね。あとは多少、UWFインターナショナルにも興味はあったけど。
――たしか、真壁選手は学生プロレス時代にUインターのリングを借りてたんですよね?
真壁 そうそう。そのつながりでUインターを観にいったときに、若手の頃の高山善廣や桜庭和志ががんばっている姿を見て、「この人たち、輝いてんな」って思ってさ。でも、レスラーになるからには業界でトップの団体でやりたかったし、新日本はすべての水準が高い団体だから。
――でも、入門テスト自体は一度は落ちて、二回目で合格したとか?
真壁 あのときは一回目に受かった人間がすぐ夜逃げして、その2カ月後くらいにもう一回テストがあってさ。で、俺ともう一人が受かったんだけど、あとで聞いたら応募が360人もあったらしいぜ?
――なんと360分の2ですか!
真壁 大橋巨泉じゃないけど「倍率ドン! さらに倍!」って感じだよな(笑)。
――いまよりもかなり狭き門ですよね。
真壁 いくらなんでも狭すぎだろ!(苦笑)。しかも俺らはベビーブームの世代だからさ。で、当日現場に来たのは30人くらいかな? いまでも記憶に残ってるのが、試験のときにたしか飯塚高史のヤローにスクワットのやりかたを注意されたんだよ。「カカトを上げろ!」って言われてさ。
――いまとなっては意外ですが、ああいうスタイルになる以前、その当時は飯塚選手がコーチ役だったんですよね。そして有名な話ですが、真壁選手は入門してからが、地獄の新弟子生活の始まりだった、と。
真壁 まあ、同期が残ってたら、また違ったんだろうけどな。一緒に合格したヤツが高校出たばっかってのもあってか、すぐにギブアップしちまって。俺は大学出て、ソイツよりも大人だったから「最後に『辞めます』って、周りに一言挨拶してけよ」なんて言ってさ。まあ、そこから井上(亘)とか柴田(勝頼)とか、後輩ができるまでの2年はまあ地獄だったよ……。
――そんな状況でも新日本プロレスを辞めなかった一番の理由は?
真壁 いやもう、俺自身が頭おかしかったんじゃねえの?(苦笑)。あとは反骨心だな。「俺が辞めるときは、○○○○で全員○○○してやる!」ってぐらい思ってたからよ(真顔で)。
――ちょっと伏せないと出せないですけど……、そのくらい精神的に極限まで追い込まれてたってことですね。
真壁 マジだよ。とくにあの時代は、個性の塊みたいなクセのある連中ばっかりだから、みんな言うことが違うんだよ。右の人間がOKって言っても、左の人間はダメだと言う。食らわされても、コッチは何が正しいかわからねえ。
――当時は、先輩レスラーの理不尽がまかり通ってた時代というか。真壁選手は以前、「そういう風潮を自分が変えた」と言っていましたよね。
真壁 そこは自分がやられたからこそ、「筋違いなことは全部変えてやろう」って思ってな。もちろん、性根から叩き直さなきゃいけないような新弟子には厳しくしたぜ? でも、ただの負の連鎖は断ち切らないとな。
――その地獄の新弟子時代は、いまの自分を形成する上でどのような位置づけですか?
真壁 まあ、「ムダにはなってない」って思うよ。あれだけ傍若無人で狂った世界をたっぷり味わっているからこそ、善し悪しもわかるっていうか。でも、いま思えば俺も要領のよくない偏屈な新弟子だったんじゃねえかな? デビュー戦のあとも、新人のクセに延々とコメント出したりさ(笑)。
――長すぎて記者が次の試合を観られなかったらしいですね(笑)。
真壁 へへへ。あと、デビューにこぎつけられた理由としては、「“レスラーのなりそこない”で地元に帰りたくなかった」っていうのは大きいよ。俺の周りはプロレス好きばっかだったし、「アイツ逃げてきたんだ」とだけは思われたくなかった。もちろん、新日本を逃げてほかの団体でレスラーになる気もなかったしな。
■観客のヒートを勝って、ノアのメインを取ってるにもかかわらず、新日本に帰ってきたら前座扱いだぜ?
――真壁選手の新人時代、新日本は全国4大ドームツアーを開催するなど、いま以上の隆盛を誇っていましたが、そういう状況をどう見つめていましたか?
真壁 いや、当時はそれが普通だと思ってたから。まあ、あの頃は「こんなに盛り上がってんのに、くすぶってる俺はなんなんだ?」って感じだったな。チャンスをもらったとしても、それが次につながらなかった。とにかく、俺はひたすら練習を続けるしかなかった。
――雑草育ちと言われる真壁選手ですが、チャンスがまったくなかったわけではないんですよね。デビュー3年で『SUPER J-CUP』に出場したり、4年目には長州力選手と組んで天山広吉&小島聡組が保持していたIWGPタッグに挑戦したり、永田裕志選手と組んで全日本プロレスに出陣したり。
真壁 そう。実際、雑誌でも俺の特集が組まれたりするんだよ。長州さんと組んだときは巻頭も飾ったしさ。でも、なぜか次のシリーズになると、また第一試合に戻ってる(苦笑)。その繰り返しで、もう俺にはワケがわからなかった。それは海外遠征から帰ってきても似たようなもんだったし。
――02年9月に凱旋してからの大きな活躍といえば、03年6月から高山善廣とタッグを結成し、プロレスリング・ノアのリングで大暴れしたこともありました
真壁 あったねえ! あのときだって観客のヒートを勝って、向こうのメインを取ってるにもかかわらず、新日本に帰ってきたら前座扱いだぜ?
――その頃の会社に対する気持ちは?
真壁 「クソだな、この会社は!」って。その一言だよ。ノアであれだけ嫌われて、雑誌でも大きく取り扱われるのに、新日本は評価してくれねんだなって。あの頃は私生活も荒れてたなあ(ニヤリ)。
――そして、横を見れば、後輩である棚橋弘至選手や中邑真輔選手が頭角を表してきました。
真壁 オウ。もう、憎しみにも似た反骨心、それしかなかったよ。「こんな価値のないクソヤローども、すぐに追い抜いてやるぜ!」って感じでな。いま思えば、それも自分に余裕のなさの裏返しなんだけどさ。
――余裕がないからこそ、逆に虚勢を張ると?
真壁 いまでも覚えてるのが、俺が知り合いの出る総合格闘技の大会を観にいくことになったんだよ。そうしたら、新人の頃の中邑に「ボクも知り合いが出るんで、一緒に行っていいですか?」って言われて、会場に行く途中に喫茶店でくだらねえ話とかして盛り上がってさ。
――へえ、そんなことがあったんですね。
真壁 でも、そのあと、あのヤローが会社にプッシュされ始めてからは、まったく交わろうとも思わなかったから。
――そのくらい意識せざるをえなかった、と。そのくすぶってる時代の中でも、印象に残ってる試合はありますか?
真壁 やっぱり、長州さんとか高山さんと組んでやったタイトルマッチかな。自分の大将を守ると同時に、切込み隊長として自分の存在をどう見せつけるかっていう試合だったね。「俺に名前はねえけど、スゲー試合を見せてやる!」ってさ。
――高山選手とのタッグでは、03年9月にあの坂口征二さんとも試合してるんですよね。柔道着を着用して。
真壁 やったやった、名古屋レインボーホールな! 俺、坂口さんを体落としで投げたんだよ。あとで坂口さんに「オイ、真壁。オマエ、俺を投げやがって」って言われてさ(笑)。
――元・全日本の柔道王じゃから一本取った、と(笑)。
真壁 あの試合も燃えたねえ。坂口さんのパートナーが“ガッデム蝶野”(蝶野正洋)で、セコンドには息子の憲二(俳優の坂口憲二)がついてさ。「あのボンボン、絶対に襲ってやる!」って思ったけどな(ニヤリ)。
■「チャンスはテメーの手でつかむもんだろ」って頭の中じゃわかってても、その方法がわからない
――あの坂口さんとのタッグマッチは人気俳優である憲二さんの影響で、ワイドショーでも大きく取り扱われたんですよね。
真壁 オウ。だから、そのあとまた前座扱いになったとき、「あそこまで新日本の名前を売ってんのに、この仕打ちはなんなんだ?」っていうイラダチはあったよ。「オマエら会社がかわいがってるヤツらに、これができるのか?」って思ったし。中邑、棚橋、柴田(勝頼)たちが世間に届くのかって。
――あの当時から真壁選手は、新闘魂三銃士に噛み付いてましたよね。
真壁 アイツらのプロレス見ても「ハイ。よくできました」くらいにしか感じなかったからな。俺がガキの頃に心を刺激されたプロレスじゃなかった。(アントニオ)猪木さんの闘魂、長州さんの反骨心、タイガーマスクの華麗なファイト、ハルク・ホーガンのパワー……、そういう飛び抜けた個性も殺気もアイツらにはない。でも、それは完全なる俺のジェラシーであって、周りから見れば俺はそれ以下だったんだろうな。
――いま冷静に振り返れば、ということですね。
真壁 ああ。お客さんは当時の俺を「アレでしょ? 休憩前に出てくるトイレタイムの人でしょ?」って観てるわけだ。そういう現実から目をそらして、「俺の追い求めてるプロレスはこれじゃねえ!」ってもがいていた。そういう時期に、今度は総合格闘技ブームが来たり、会社のゴタゴタで選手が抜けていったり、新日本がどんどん堕ちていってさ。ますます「この会社はクソだな!」って荒れていったね、私生活含め(笑)。
――プライベートは常に荒れ放題だった、と。(苦笑)。
真壁 まあ、プロレスラーにとって「チャンスってなんなんだ」って話だよな。会社からはロクにチャンスをもらえない。「いや、チャンスはテメーの手でつかむもんだろ」って頭の中じゃわかってても、その方法がわからない。自分がどんなにいい試合したところで、おいしいところを持っていくのは先輩たちとクソばっかり。「いったい俺は何を見せればいいんだよ?」って、当時はそんなストレスがずっとあったね。
――あの時期、じつは退団を考えたこともあったそうですね。
真壁 ウン、辞めようと思った時期もあったな。
※この続きは第2回にて!
■「戦国炎舞-KIZNA- Presents 真壁刀義 20th anniversary」
2017年2月21日(火)18:30~ 東京・後楽園ホール
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